人間の心臓を動かしている者、それが「本当の神様(空:くう)」 ― 2016年01月02日
<当記事の要点>
・自分の心臓を、一体「誰が動かしている」のか?
・「自分自身ではない」のは明らか。
・「自然界が動かしている」のは、明らか。
・その自然界の「頂点に立つもの」が、本物の神様(空:くう)。
・神様と聞くと「拒絶反応を示す」のは、宗教が邪魔をしているから。
・「神様」に限らず、「自分の好きな名前で呼べば良い」。
・「頂点に立つもの」など存在しないとは、誰にも断言できない。
・「宗教上の偽神様」のことではない。
<記事本文>
自分の心臓を、一体「誰が動かしている」のか?
こんなことを、いちいち考える人は、ほとんどいません。
私自身、生まれてからずっと長い間、考えたこともありませんでした。
自分の心臓が動いているのは、当り前すぎるほど、当り前のことです。
わざわざ考える必要など、まったくありません。
だから、誰も考えません。
しかし、考える、考えないに関わらず、「自分で動かしてはいない」のは、確かです。
ここで言う「自分」とは、表面意識としての「自分」です。
もし仮に、自分の心臓を「自分で動かしている」ならば、一大事です。
夜もおちおち寝られません。
朝起きて、気が付いたら、いつの間にか「自分の心臓が止まっていた」となるのは、明らかです。
酒を飲んでひっくり返っていたら、酔いが覚めて、ふと気付くと、いつの間にか「自分の心臓が止まっていた」となるのは、明らかです。
おちおち酒も飲めません。
実際には、安心して夜寝られます。
思う存分、酒が飲めます。
自分の心臓は、「自分が動かしていない」からです。
では、一体誰が、動かしているのか?
「決まっているだろ、自分の体だ」
誰もが、そう答えるはずです。
確かに、その通りです。
では、自分の心臓を動かしている「自分の体」は、一体「誰が動かしているのか」?
「決まっているだろ、自然界だ」
誰もが、そう答えるはずです。
確かに、その通りです。
では、自分の心臓を動かしている「自分の体」を動かしている、「自然界」は、一体「誰が動かしているのか」?
「だから、決まっているだろ、自然界だよ」
誰もが、そう答えるはずです。
自然界を動かしているのが、「自然界」であるならば、その自然界を動かしているのは、一体「誰なのか」?
「だから、自然界だと言ってるだろ。しつこいな!!」
誰もが、そう怒鳴り出すかもしれません。
「どこまで行っても、切りがない論理」に見えるかもしれません。
実際には、「切りがあります」。
自然界の「最上位。究極の頂点に」神様がいると、解釈すれば良いのです。
ただし、ここで言う「神様」は、宗教上の神様ではありません。
「本物の神様」です。
宗教上の「偽神様」ではなく、「精神世界」で言われている、「本物の神様」です。
当ブログでは、それを明確に区別するために、「神様(空:くう)」という、奇妙な表現を、あえて行っています。
本当は、精神世界で徐々に広まりつつある、「空」という端的な表現をしたいのですが、それでは、大多数の人々に分ってもらえないので、やむなく「神様(空:くう)」の表現をしています。
「空:くう」の「くう」は、もちろん「ふりがな」を表しています。
紙の上の印刷物ならば、漢字の上に、小さな文字で「ふりがな」を振ることができます。
インターネット上では、それがほとんど不可能なので、「ふりがな」の代用品として、「:くう」という、変則的な表現をやむなく行っています。
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「神様」と言い出すと、多くの人々は、無意識のうちに、あるいは意識的に「肩に力が入って」しまいます。
その結果、どうしても「拒絶反応」を示します。
それは、「宗教が邪魔をしている」からです。
もし、世の中に、宗教がまったく存在しなければ、「神様」という言葉も、結果的に存在しなかったはずです。
そのような状況であれば、精神世界の理解者たちが、「神様」という表現をしても、いまほど「拒絶感を覚えなかった」と思います。
なまじ、宗教が、2千年以上も前から世の中に定着しているため、「神様」と聞くと、宗教をすぐに連想し、拒絶したくなるのです。
あるいは、逆に、「宗教話」の一種と、頭から思い込んでしまうのです。
それらの問題を避けるために、精神世界では、「至高の存在」 「宇宙意識」 「高次元の存在」……等々、「神様」以外の表現を、意識的に用いる人が少なくありません。
私が、以前開設していたホームページでも、「宇宙の根源」という表現を行っていました。
当ブログでは、ご覧のとおり、ストレートに「神様」の表現をする代わりに、「奇妙な注釈」を、あえて付けています。
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「神様」に限らず、「ものの名前」は、「人間が勝手に付けた」だけです。
例えば、「海」は、海がみずから「自分の名前は、海である」と、人間に宣言したわけではありません。
太古の昔に、どこかの誰かが、海を指さして「海」と呼び、それを人々が受け入れたので、自然に「海のことを、海と呼ぶ」ようになっただけです。
もし仮に、その人物が、海を指さして、海ではなく「山」と呼んでいたら、人々は「海のことを、海ではなく、山と呼ぶ」ようになっていたはずです(理屈の上では)。
それと同じです。
「神様」のことを、「神様と呼ばなければいけない義務はありません」。
「至高の存在」 「宇宙意識」 「高次元の意識」 「聖なる存在」……等々、自分の好きに呼べばいいのです。
ただし、自分で好き勝手に呼ぶ場合、他人には、それが通じなくなります。
それを、承知する必要があります。
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どのように呼ぶかにかかわらず、そもそも「神様の存在を認めない」ので、呼ぶつもりはない、という人もいるかもしれません。
「神様の存在を認めなければ、認めない」で構いません。
自分の心臓を動かしている巨大なシステムの中で、「究極的な存在」、それを、このブログでは「神様(空:くう)と表現している」と、受け止めてもらえば、それで十分とも言えます。
冒頭で述べたように、
「自分の心臓は、自分で動かしてはいない」
「自分以外の何か、が動かしている」
これは、誰にも否定できない、物理的事実です。
その「何か」の「一番、頂点に立つもの」 「一番、究極の位置に存在するもの」があっても不思議ではありません。
「そのようなものは存在しない」と、断言できる根拠は、誰も持ち合わせていないはずです。
それを、「神様(空:くう)」と呼んでも、何ら不合理ではないはずです。
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くどいようですが、「宗教上の偽神様」のことではありません。
世界中すべての宗教は「インチキ商品」です。
既存の記事: 『ブログ新設 --「地獄の地球」から、「天国の地球」へ』
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